墳丘墓
弥生時代後期にはすでに岡山県の楯築墳丘墓や山陰地方の四隅突出型墳丘墓に代表される墳丘墓が出現していましたね。
先ずはここで古墳時代の年表を確認しておきましょう!
- 3世紀中頃~4世紀後半古墳時代前期
- 4世紀後半~5世紀末古墳時代中期
- 6~7世紀古墳時代後期
前方後円墳と前方後方墳の違い
そして3世紀中頃~後半になると、墳丘墓よりも大規模な前方後円墳が西日本を中心に出現します。
さて、古墳時代前期のうち特に「3世紀後半」のことを出現期といいます。出現期の古墳の特色は西日本では前方後円墳が多かったのに対し東日本では前方後方墳が多かった点です。
こうした地域差が前方後円墳と前方後方墳の1つの違いです。
もう1つの両者の違いは「大規模は古墳には前方後円墳が多い」という点です。実際、日本の古墳を墳丘の長さの順に並べると1位~46位までは全て前方後円墳です。
但し古墳時代前期において数として多いのは、前方後円墳や前方後方墳ではなく、円墳や方墳といった小規模な古墳です。
前方後円墳と前方後方墳の共通点
竪穴式石室
また古墳時代前期~中期の古墳には家族墓的な性格が無く、基本的に「お一人様用」でした。
そのため前方後円墳にも前方後方墳にも共通して竪穴式石室という埋葬方法が採用されています。
竪穴式石室は一人だけを埋葬しフタをしてしまう仕組みで、後から追加で家族の遺体を埋葬する(追葬する)ことを想定していないつくりなのです。
また竪穴式石室を用いずかわりに棺を粘土でおおった粘土槨という竪穴式の埋葬形態も見られました。
出現期~古墳時代中期は基本的に「お一人様用」の竪穴式石室や粘土槨が用いられたと覚えておきましょう。
副葬品
もちろん前方後円墳であれ、前方後方墳であれ、これらは権力者のお墓ですから、銅鏡などの呪術的な副葬品が一緒に埋められます。
呪術的・宗教的な意味合いを持つ副葬品としては三角縁神獣鏡が有名です。
こうした呪術的な副葬品から古墳時代前期の支配者は宗教的権威を背景に邪馬台国の卑弥呼のように司祭者的な政治を行っていたと考えられています。
ちなみに古墳時代中期になると武力を背景に国を治めていたことから副葬品も武器や馬具などの武人的性格を帯びたものに変わっていきます。
箸墓古墳と「ヤマト政権」発祥の地
なお出現期最大の前方後円墳は奈良県の箸墓古墳ですよ!奈良県とは大和のことですね。最も大きな古墳が大和(奈良県)にあるだけではなく、前期の大規模な前方後円墳が大和に集中していることから、大和地方を中心に大規模な政治連合があったと考えられています。
この政治連合のことをヤマト政権といいます。
ヤマト政権の勢力圏
4世紀半ばのヤマト政権の勢力範囲
なお、おおよそ4世紀中頃には東北地方中部にも古墳が波及しており、東日本の多くの地域がヤマト政権の勢力圏だったことを示しています。
また同じ時期に大和地方と同じ規模の前方後円墳が関東~九州北部にも見られるようになることから、これら地域の豪族たちもヤマト政権の支配下に入っていったと考えられます。
前方後円墳の広がりとヤマト政権の勢力拡大過程
つまり大和を始点とする前方後円墳の広がりはヤマト政権の勢力拡大のプロセスを表しているというわけです。
謎の世紀
ただ古墳時代前期にあたる4世紀の日本の様子を記した文献史料は皆無に等しいので、詳細なヤマト政権の全国統一過程は分かっていません(そのため4世紀は”謎の世紀”と呼ばれています)。
5世紀後半のヤマト政権の勢力範囲
しかし5世紀後半にはヤマト政権の勢力範囲が東北~九州に及んだのは確かです。
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