漢字の伝来は遅くとも5世紀後半
「応神朝の頃、王仁が日本に文字(漢字)を伝えた」とする考え方はどうも史実ではなさそうです。
ところで、漢字(文字)の日本への伝来は、遅くとも5世紀の後半です。
このころには、すでに日本に漢字(文字)が伝わっています。
このことは稲荷山古墳出土鉄剣銘の存在から確認することができます。
この鉄剣には115文字の漢字が刻まれており、その中に「辛亥年」という記述があるからです。辛亥年は西暦471年を意味します。
ところで漢字(文字)の伝来と言えば「古墳時代」です!
古墳時代の超わかりやすい解説は下記の記事からご覧いただくことができます!
【保存版】読むだけで分かる!古墳時代まとめ!簡単に超わかりやすく解説[日本史B]
是非、日本史学習の参考にしてみてくださいね!
稲荷山古墳出土鉄剣銘の本文
では重要史料である稲荷山古墳出土鉄剣銘の本文を確認していきましょう!
〔表〕辛亥の年七月中記す。乎獲居臣、上祖の名は意富比垝…。
現代語訳西暦471年7月中に記す。乎獲居臣、その先祖の名前は意富比垝…。
「表」の記述で大切なのは「辛亥年=471年」だけです。その他は単なる乎獲居臣という人物の紹介文で日本史的には重要ではありません。
続いて「裏」の記述を確認していきましょう。
〔裏〕…世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。獲加多支鹵大王の寺、斯鬼宮に在る時、吾、天下を佐治し、此の百錬の利刀を作らしめ、吾が奉事の根源を記す也り。
現代語訳代々大王の武官の長として朝廷に仕えて現在に至っている。ワカタケル大王の寺が斯鬼宮にあったとき、私も大王の統治を助けたので、この精錬された立派な刀を作らせて自分の業績を書き残すこととした。
「裏」の銘文も基本的に日本史的にはあまり意味のない自慢話にすぎないのですが、「獲加多支鹵大王」は雄略天皇のことですよ。
雄略天皇は5世紀末頃の大王ですから、埼玉県の稲荷山古墳からこの鉄剣が出土していることは5世紀のヤマト政権の勢力範囲が「関東」にまで及んでいたことの証拠になるわけです。
稲荷山古墳出土鉄剣銘は5世紀後半には日本で漢字の使用が始まっていた証拠でもあり、ヤマト政権の勢力範囲を示す遺物でもあるのです。
ちなみに、これと関連して出題される史料が熊本県の『江田船山古墳出土鉄刀銘』です。
この史料にも「獲加多支鹵大王」すなわち雄略天皇が登場する。江田船山古墳は熊本県の古墳ですから、この鉄刀銘は5世紀のヤマト政権の勢力範囲が「九州」にまで及んでいたことを示しています。
遅くとも5世紀後半には日本に文字(漢字)が伝来していた!
【保存版】読むだけで分かる!古墳時代まとめ!簡単に超わかりやすく解説[日本史B]
その他の「漢字の使用」の証拠となる遺物
その他の漢字の使用を示す史料には369年の石上神宮七支刀銘と443年説と503年説に意見が別れている隅田八幡神社人物画像鏡銘の2つがあります。
石上神宮七支刀銘は百済の肖古王が伝えたものの可能性が高いので、国内で文字(漢字)が使用された証拠としては弱いです。
一方、隅田八幡神社人物画像鏡銘は443年説と503年説に見解が分かれており、もしも443年説が正しければ日本最古の文字(漢字)の使用を示す遺物と言えますが、503年説が正しい可能性もあるのでなんともいえません。
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