超わかる!飛鳥時代完全まとめ
高校日本史Bの定期試験・大学入試に完全対応した飛鳥時代の超わかりやすい「まとめ」です。
歴史能力検定や教養としての日本史学習にも自信を持っておすすめできる内容になっているので、是非参考にしてみてください。
「読むだけ」で飛鳥時代が面白いほどわかりますよ!
飛鳥時代とは
飛鳥時代とは592年の推古朝~710年の平城京遷都までの期間のことです。
ただし、この「まとめ記事」では、6世紀初頭の継体朝~710年の平城京遷都までを扱います。
主に政治史と史料問題をとりあげ、文化史は割愛します。
なお、難しい漢字は大きめのフォントで表記しています。
まずは年表で飛鳥時代が日本史全体のどのあたりなのかを確認するところからはじめましょう。
- 紀元前4世紀~3世紀中頃
水稲耕作の本格化
- 3世紀中頃~7世紀
4世紀にヤマト政権が成立
- 592年~710年飛鳥時代
- 蘇我氏の権力独占
- 大化の改新
- 律令国家の形成
- 710~794年奈良時代
継体天皇の時代のまとめ
飛鳥時代がはじまるのは592年の推古朝からですが、まずは6世紀前半の継体天皇の時代を見ていきましょう。
継体朝から解説をはじめた方が、飛鳥時代の流れを理解しやすいからです。
継体天皇の即位
さて、ヤマト政権は武烈天皇の死後、なかなか後継者が見つからず、天皇家の断絶の危機に直面します。
このとき大伴金村が越前(福井県)から継体天皇を迎えて即位させました。こうして天皇家断絶の危機を救った大伴金村は絶大な権力を握ることになるわけです。
大伴金村の失脚
飛鳥時代の東アジア情勢
上図はこの時代の朝鮮半島の略図です。
加耶にはヤマト政権の拠点があり、またヤマト政権は百済と深いつながりを持っていました。
また、このころ、中国が弱体化し、高句麗が大きな力を持つようになります。そのため高句麗は、新羅・百済両国を圧迫します。その結果、新羅と百済はそれぞれ、日本の勢力圏である加耶を圧迫します。
加耶は朝鮮半島の日本の重要拠点!
大伴金村による任那四県の割譲
このとき朝鮮半島の経営を任されていたのは大伴金村でした。そして512年になると百済の要請で、大伴金村は加耶西部にある任那四県という地域を百済にあげてしまいます。
賄賂疑惑
その際、大伴金村は百済から賄賂を受け取ったのではないか?と疑われます。その結果、物部尾輿らが賄賂疑惑で追求され、540年には大伴金村は失脚してしまいます。
この事件の影響は次の2つです。
- 朝鮮半島に対する日本の支配力が急速に失われた
- 大伴氏の失脚により蘇我氏と物部氏の対立が激化した
任那割譲で大伴金村は失脚する!
磐井の乱
任那復興のため大軍を派遣
ヤマト政権は任那の回復を図り、近江毛野率いる大軍を新羅に向けて派遣します。当時、ヤマト政権と新羅は任那の奪い合いをしていたためです。
しかし九州の地で、独自に新羅と結んだ筑紫国造磐井の抵抗を受け、海を渡ることができませんでした。
- 日本は任那を取り戻したかった!
- 新羅も任那が欲しかった!
筑紫国造磐井が反乱を起こした理由
筑紫国造磐井は九州の大豪族でしたが、ヤマト政権に不満をもっていました。
このような状況を利用して、新羅は磐井に賄賂を支払い、ヤマト政権に対して反乱を起こすよう、そそのかしたのです。
つまり新羅は磐井を利用して、ヤマト政権の新羅への侵攻を阻止したわけです。
これが527年の磐井の乱です。
磐井の鎮圧
翌528年、ヤマト政権は磐井の乱を鎮圧するため物部麁鹿火を派遣し、磐井を斬ります。
戦後、磐井の領地だった場所には天皇の直轄地である屯倉が設置されます。
【参考】氏姓制度と私地私民のまとめ
527年:磐井の乱
欽明天皇の時代のまとめ
欽明天皇といえば仏教です!
百済の聖明王が6世紀半ば頃に日本に仏教を伝えます。これを「仏教の公伝」といいます。
日本に仏教がはいっていきたのはいいのですが、仏教を受け入れるかどうかで、蘇我氏と物部氏が激しく対立します!
「仏教の公伝」については以下の記事で詳しくまとめてありますので、是非、当記事とあわせて読んでみていただければと思います!
欽明天皇といえば仏教!
用明天皇の死後
この対立は実際に戦争にまで発展しますが、財政権を握り権力を強めていた蘇我馬子が物部守屋を滅ぼします。
これにより蘇我氏の権力はさらに拡大します。これを蘇我氏の専横といいます。「専横」とは「わがままで横暴なふるまい」のことですよ。
崇峻天皇/推古天皇の時代のまとめ
絶大な権力を握った蘇我馬子は崇峻天皇を即位させ、政権を独占します。
崇峻天皇の暗殺
しかし、次第に蘇我馬子と崇峻天皇が対立するようになると、592年、蘇我馬子は渡来人を使って崇峻天皇を暗殺してしまいます。
推古天皇の即位
そして、同592年、蘇我馬子は日本で最初の女性の天皇である推古天皇を即位させます。
飛鳥時代は592年~710年ですから、推古天皇の即位のタイミングでようやく飛鳥時代がはじまりますね!
厩戸王を摂政に任命
翌593年には天皇の甥の厩戸王(聖徳太子)が摂政に就きます。「摂政」とは天皇にかわって政治全般を行う地位のことですよ。
こうして、蘇我馬子と厩戸王(聖徳太子)はともに政治にあたることになります。
なお、「厩戸王=聖徳太子」です。
※以後「聖徳太子」と記載
蘇我馬子は崇峻天皇を暗殺し、推古天皇を即位させた!
聖徳太子の政策
冠位十二階
簡単に言えば氏姓制度で定められた、氏とは「一族」のことで、姓とは「身分」のことです。
603年に制定された冠位十二階は、身分が一族の家柄で決まってしまうのを防ぐため、個人の才能と実績に対して身分を与える制度です。
これにより氏族単位ではなく、個人単位の人材採用が可能になったわけです。
世襲制であった氏姓制度とは違い、冠位十二階で与えられる身分は1代限りのものでした。世襲制とは一族に与えられた位が代々子孫に受け継がれていくことですよ。
また、冠位十二階では出世も可能でした。
聖徳太子が作った冠位十二階は個人の功績や才能に応じて位を与える制度!位は1代限りで、出世も可能!
憲法十七条
聖徳太子の政策としては604年の憲法十七条の制定も有名です。簡単に言えば豪族に役人としての心構えを示したものです。
重要史料なので簡単に本文を確認しておきましょう。
一に曰く、和を以て貴しとなし、忤ふること無きを宗とせよ。……
二に曰く、篤く三宝を敬へ。三宝とは、仏・法・僧なり。……
三に曰く、詔を承りては必ず謹め。……
【現代語訳】
一、和を尊び、人と争うことのないようにしなさい。
二、深く三宝を敬いなさい。三宝とは仏とその教えと僧侶のことである。
三、天皇の命令を受けたらちゃんと従いなさい。
憲法十七条は、後の律令にもつながるもので、天皇中心の国家であることを示し、また豪族同士の争いをやめるようにと述べています。
※「律令」とは法律のこと。
遣隋使
小野妹子の派遣
遣隋使では607年に中国の隋に小野妹子を派遣し、従来の朝貢外交ではなく、新たに対等外交を求める国書を持参します。
朝貢外交とは中国に認めてもらうためにお土産を持って挨拶に行くことです。一方、対等外交とは、簡単に言えば、中国の権力を借りずに、独立して豪族を統治していく方針のことです。
隋の皇帝、煬帝はこれに激怒しますが、高句麗と対立している状況で日本を敵にまわすのは不利と考え、答礼使(返事をするための使者)として裴世清を日本に派遣します。
裴世清の帰国
翌608年の裴世清の帰国にあわせて再び、小野妹子は隋に向かいます。このとき留学生として高向玄理が、留学僧として、南淵請安と旻が同行します。
高向玄理と旻は大化の改新でも活躍しますよ!
なお、遣隋使については『隋書』倭国伝を超わかりやすく解説で詳しく説明しています。『隋書』倭国伝は入試超頻出の重要史料なので、あわせて確認してみてくださいね!
舒明天皇の時代のまとめ
舒明天皇といえば初の遣唐使です!派遣されたのは犬上御田鍬でした。
また、舒明天皇の死後、最も有力な皇位継承者は聖徳太子の子である山背大兄王でした。しかし、山背大兄王を邪魔に思った蘇我入鹿は、山背大兄王を自殺に追い込み滅ぼしてしまいます。
皇極天皇/孝徳天皇の時代のまとめ
蘇我入鹿の権力独占
蘇我蝦夷は女帝である皇極天皇を立てます。皇極天皇の下で絶大な権力をふるったのが、蝦夷の子、蘇我入鹿です。
唐の拡大
618年に中国で唐が成立すると、世界的な大帝国を築き上げます。
こうした唐の拡大は周辺諸国に「もしかしたら唐にのみ込まれるかもしれない」という大きな危機感を与えました。
もちろん日本も例外ではなく、国内での危機感を強め、天皇中心の中央集権国家を実現する必要性を痛感するようになります。
中央集権国家とは1箇所に全ての権力が集中している強い国家のことです!
乙巳の変
こうした経緯から、中大兄皇子と中臣鎌足らは協力して蘇我氏を滅ぼします。この645年のクーデター事件が乙巳の変です。
乙巳の変では、蘇我入鹿を暗殺し、その父、蘇我蝦夷を自殺に追い込みます。
こうして長く続いた蘇我氏の権力独占は終わりを迎えたのです。
そして、唐の拡大への危機感から起きた、乙巳の変に始まる一連の政治改革を大化の改新といいます。
大化の改新の目的は唐に負けないために中央集権体制を確立すること!
新政府の発足
645年の乙巳の変後、ただちに新政府が発足します。
新政府では、蘇我氏が立てた皇極天皇にかわり、孝徳天皇が即位します。
このとき皇太子として権力を握ったのが中大兄皇子です。
また、新政府では内臣に中臣鎌足、左大臣に阿倍内麻呂、右大臣に蘇我倉山田石川麻呂が任命されます。
さらに、遣隋使で活躍し、その後、唐の政治を学んで帰国した、高向玄理と旻は国博士として中大兄皇子の政治を助けます。
ちなみに、阿倍内麻呂は旧豪族を代表する長老で、乙巳の変のとき中大兄皇子に協力した人物です。また蘇我倉山田石川麻呂も乙巳の変のときの協力者です。
【新政府の主要メンバー】
- 天皇:孝徳天皇
- 皇太子:中大兄皇子
- 内臣:中臣鎌足
難波宮への遷都
同645年には、飛鳥から難波長柄豊碕宮への遷都が行われます。遷都とは首都を移すことですよ。
改新の詔の発布
翌646年には、改新の詔が発布されます。その目的は唐の律令(法律)にならって、天皇中心の中央集権体制を確立することです。
改新の詔の要約
改新の詔では次の4つの方針が打ち出されました。
- 皇族や豪族の私有地・私有民は国家の支配とする(公地公民制)
- 地方の行政区画を制定する
- 戸籍・計帳を作成し、班田収授を実施する
- 新しい統一的税制を施行する
改新の詔の内容はあくまで「目標」であって、実際に全てが実現されたわけではありません。
公地公民制とは
また、第1条で掲げられた公地公民制は、従来の私地私民(天皇や豪族が土地・人民をそれぞれ独自に所有する制度)を根本から見直し、土地・人民を全てとりあげて国のものにするという制度です。
当然、私有地・私有民をとりあげられるわけですから、豪族からの反発が予想されますが、上級豪族には食封という給与が与えられたので、それほど反対はなかったようです。
班田収授とは
第3条の班田収授とは全ての土地を国のものとし、それを農民などに貸し与え、死亡したらとりあげる制度です。
戸籍とは土地を人民に貸し出すための台帳で、計帳とは人民から税をとるための台帳です。
しかし、この班田収授も目標として掲げられただけで、大化の改新の段階では実現されませんでした。
646年の改新の詔から24年後の670年になってようやく、日本で初めての全国的な戸籍(庚午年籍)が作成されたことからも、大化の改新の時点では班田収授は実施されなかったことが分かります。
最終的に班田収授が実施されたのは692年くらいと考えられています。
646年:改新の詔を発布
東北地方への進出
孝徳天皇、中大兄皇子らは東北地方の蝦夷を支配するための足がかりとして新潟県(越後国)の日本海側に、2つの砦を築きます。647年には渟足柵を、翌648年には磐舟柵を設置します。
ここまでのまとめ
ここまでで、飛鳥時代(592年~710年)全体のうち、「推古朝→大化の改新」を扱いました。飛鳥時代の歴史の流れを見失わないように、いったん年表に整理しておきますね。
- 592年推古天皇の即位(飛鳥時代のはじまり)
崇峻天皇と対立した蘇我馬子は、崇峻天皇を暗殺し、同592年に推古天皇を即位させます。これが飛鳥時代のはじまりです。
- 593年聖徳太子が推古天皇の摂政に就任
聖徳太子(厩戸王)が推古天皇の摂政に就任し蘇我馬子とともに政治を行います。
- 603年冠位十二階を制定
氏姓制度の弊害をなくすべく、冠位十二階を制定します。これにより、一族単位ではなく個人単位の人材採用が可能になります。
- 604年憲法十七条の制定
豪族に官僚としての心構えを説きます。
- 607年第2回・遣隋使の実施
小野妹子が隋に派遣され、隋の皇帝の煬帝に対等外交を求める国書を持参します。
- 630年初の遣唐使を実施
舒明天皇のとき、初の遣唐使が実施され、犬上御田鍬が唐に派遣されます。
- 643年蘇我氏が山背大兄王を滅ぼす
蘇我入鹿が聖徳太子の子の山背大兄王を自殺に追い込み、権力を独占します。
- 645年乙巳の変・大化の改新
中大兄皇子や中臣鎌足らが中心となり、蘇我氏を滅ぼします。同645年に孝徳天皇が即位し、翌646年には改新の詔が発布されます。
- 647年新潟県に渟足柵を設置
- 648年新潟県に磐舟柵を設置
斉明天皇の時代のまとめ
【補足】孝徳天皇は654年に難波宮で死去します。
斉明天皇の重祚
孝徳天皇の死後も中大兄皇子は天皇に即位せず、自分の母親である元皇極天皇を斉明天皇として再び即位させました。つまり、皇極天皇と斉明天皇は同一人物です。
このように一度退位した元天皇が再び皇位につくことを重祚といいます。
皇極天皇は女性ですから当然、斉明天皇も女性ですよ。
蝦夷の平定
すでに孝徳天皇の時代に、新潟県に渟足柵と磐舟柵を設置し、東北経営の足がかりとしていますが、その約10年後の658年には斉明天皇の下で、阿倍比羅夫を東北地方に派遣し、蝦夷の討伐を行います。
阿倍比羅夫は次々に勝利をおさめ北海道まで進軍したようです。
斉明天皇の時代の朝鮮半島情勢
大国、唐の強大化は日本を含む周辺諸国に危機感を与え続けていました。この心配がついに現実のものとなり、660年に唐と新羅の連合軍が百済を滅ぼしてしまいます。
百済は日本にとって大切な友好国ですから、ヤマト政権も黙ってはいませんよ!
百済の救援
百済の生き残りの王族は、日本に百済復興のための救援を要請します。
これに応じた、斉明天皇、中大兄皇子らは大軍を朝鮮半島に派遣することを決定し、筑紫(福岡県)に移動します。
百済の救援は最前線に天皇と皇太子が移動するほどの大規模な作戦でした。
しかし、斉明天皇は661年に筑紫(福岡県)で亡くなってしまいます。
中大兄皇子の称制のまとめ
称制とは
661年に斉明天皇が筑紫(福岡県)で亡くなると、中大兄皇子は天皇に即位せずに国政をみました。天皇は空位のままです。つまり中大兄皇子は事実上の天皇なのですが、形式的には天皇になっていない。
このように天皇の代理を務めることを称制といいます。
白村江の戦い
661年に斉明天皇は筑紫(福岡県)で死去しますが、中大兄皇子が百済救援軍の派遣を引き継ぎ、ついに663年に朝鮮半島の白村江で唐・新羅連合軍と激突します!
しかし、日本はボロ負けしてしまいます。これが白村江の戦いです。
その結果、百済は完全に滅び、日本も朝鮮半島における足がかりを失ってしまいます。
大津宮への遷都
これまで首都機能のあった難波長柄豊碕宮は、上図のように大阪湾に面しており、万が一、唐・新羅連合軍が大阪湾まで攻めてきた場合、首都機能を失ってしまう危険があります。
そこで、中大兄皇子は、667年に近江大津宮に首都機能を移転します。近江とは現在の滋賀県のことですよ。
天智天皇の時代のまとめ
国防政策の推進
唐・新羅連合軍が最も攻めてくる可能性が高いのは朝鮮半島に一番近い九州北部です。そしてヤマト政権の九州における中心的な拠点が太宰府です。
そこで、天智天皇は太宰府の守りを固めるため、太宰府の北に水城という堤防を築きます。
さらに、太宰府の北の山上には大野城という朝鮮式山城を設置します。朝鮮式山城とは百済の技術を導入して作られた防御施設ですよ。
近江令の制定
天智天皇は、中国風の法律を作ろうということで、中臣鎌足に命じ、668年に近江令を制定します。近江令は日本で最初の法令ですが、現存せず、存在自体が怪しいという説もあります。
庚午年籍の作成
また、670年に天智天皇のもとで作成された日本初の全国規模の戸籍を庚午年籍といいます。
庚午年籍は人民に土地を貸し与えるための根本台帳で、氏名・続柄・性別・年齢などが記載されていると想像されますが、残念ながら現存しておらず、詳細は不明です。
なお、翌671年に天智天皇は死去し、皇位継承争いに発展していきます。
天武天皇/持統天皇の時代のまとめ
壬申の乱
671年に天智天皇が亡くなると、翌672年、古代史最大の内乱である壬申の乱が起きます。
壬申の乱では天智天皇の子の大友皇子と弟の大海人皇子が争います。
普通に考えれば、天智天皇の子である大友皇子が後継者になるはずですが、「中大兄皇子→天智天皇」の政治改革に不満を持つ勢力は、天智天皇と子の大友皇子に反発し、大海人皇子のもとに集まります。
こうして壬申の乱へのと発展し、最終的には大海人皇子が勝利。
飛鳥浄御原宮で天武天皇として即位します。
- 中大兄皇子 = 天智天皇
- 大海人皇子 = 天武天皇
皇親政治の推進
地方豪族など下級身分の者を味方につけた大海人皇子が、中央豪族を主体とする大友皇子の勢力を攻め滅ぼしたことで、大豪族が力を失い、天皇の権力が大きく高まります。
大豪族を倒して即位した天武天皇は天皇を中心とする政治体制の確立を目指します。これを皇親政治といいます。
つまり中央集権を強力に推し進めていったわけです。
八色の姓とは
天武天皇は684年に皇親政治(天皇中心の政治)を推し進めるための具体策として、豪族の身分制度を再編成すべく八色の姓を制定します。
八色の姓では、天皇に近い立場の者ほど高い地位につくことができ、氏姓制度では最高位であった、臣や連は下位とされました。
富本銭の発行
天武天皇の時代には、日本最古の貨幣(お金)である富本銭が発行されましたよ。
【参考】和同開珎と富本銭の違い
飛鳥浄御原令
また、681年、天武天皇は飛鳥浄御原令の作成に着手します。作っただけで施行はまだですよ!「令」とは現代の行政法のことです。
藤原京の造営
さらに、新しい都として藤原京の造営を開始しますが、遷都はまだですよ!
飛鳥浄御原令の施行
天武天皇の病死から3年後の689年、持統天皇は夫の事業を引き継ぎ、飛鳥浄御原令を施行します。飛鳥浄御原令は689年~701年の大宝律令の成立まで続きますよ。
庚寅年籍の作成
690年、持統天皇は飛鳥浄御原令に基づいて庚寅年籍という新しい戸籍を作ります。戸籍とは人民に土地を貸し与えるための根本台帳のことでしたね。
- 天智天皇→庚午年籍
- 持統天皇→庚寅年籍
藤原京への遷都
694年、持統天皇は夫の天武天皇がやり残した藤原京への遷都を成し遂げます。藤原京は唐の都、長安をモデルに造営され、日本初の本格的な都城制をもった都です。694年~710年まで続きました。
文武天皇の時代のまとめ
持統天皇は697年に孫の文武天皇に皇位を譲ります。そして文武天皇の治世になると701年には大宝律令が成立し、翌702年にこれを使い始めます。
大宝律令を作成したのは藤原不比等と刑部親王らを中心とするメンバーです。
さて、これまで「~令」はありましたが、「律」はありませんでした。そのため【大宝律令】は「律」と「令」がそろった初めての法律です。「令」とは行政法のことでしたね。一方、「律」とは刑法のことですよ。
文武天皇→大宝律令
こうして元明天皇の時代に入ると、710年に平城京への遷都が実施され、飛鳥時代が終わり、奈良時代へと突入していくのです!
本当にお疲れ様でした!ここまで読んでいただきありがとうございます!
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