磐井の乱を超わかりやすく解説!
磐井の乱の概要
古墳時代後期の6世紀はじめ、ヤマト政権では武烈天皇の系譜が途絶え、王朝断絶の危機を迎えていました。そこで大伴金村が北陸方面にいた継体天皇を迎えて即位させます。
考古学でいえば古墳時代後期ですね。
このとき起こった大事件が「磐井の乱」です。東アジア情勢が複雑に絡んだ事件でした。
簡単に言うと九州の地方豪族であった磐井が朝鮮半島の新羅と結んでヤマト政権に反乱を起こした事件です。
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磐井の乱の背景・内容・結果
磐井の乱前夜の朝鮮半島情勢
当時の朝鮮半島情勢を振り返るところからはじめていきましょう。ちなみに、下図の加羅とは加耶のことです。つまり「加羅=加耶」ですね。
6世紀の朝鮮半島では高句麗が強大な力を持っていました。そのため高句麗に圧迫された百済・新羅は、加耶方面への進出を試みます。
加耶4県の割譲
当時、加耶は日本の勢力圏でした。しかし、海の向こうのため、守り切るのが困難だと判断したヤマト政権は大伴金村の判断により加耶の一部(任那4県)を百済にあげてしまいます。そして、このとき大伴金村は百済からの賄賂疑惑で失脚します。
ヤマト政権&百済 VS 磐井&新羅
さて、百済に加耶の一部を割譲するくらいですからヤマト政権は百済とは比較的仲が良かったわけです。しかし、九州の豪族であった磐井は新羅と仲良くしていました。
このタイミングで、ヤマト政権は、新羅に奪われた加耶の地域を取り戻すため、近江毛野に朝鮮半島への進軍を命じます。
この計画を知った新羅は磐井に賄賂を送り、近江毛野の軍隊の妨害を依頼しました。527年、磐井はそれに応じ、進軍中の近江毛野と交戦します。
これを知ったヤマト政権は翌528年に物部麁鹿火を派遣し、激戦の末、磐井を鎮圧することに成功します。
つまり、磐井の乱は百済と深く結びついていたヤマト政権と新羅と結んでいた磐井の戦いだったわけです。
大伴氏の権力弱体化
そして、物部麁鹿火すなわち物部氏が磐井の乱の鎮圧に成功することで、結果的に物部氏と同様に軍事を担当していた大連であった大伴氏は大きく権力を失うことになります。
つまり大伴氏は物部氏に手柄を取られてしまったわけです。
屯倉の設置
筑紫国造磐井の領土だった地域(筑紫国)には戦後、大王の直轄地である屯倉が設置されました。また死亡した磐井は福岡県の岩戸山古墳に葬られたと考えられています。
さて、磐井の乱の解説はここまでです。ここからは一問一答で知識を定着させていきましょう!定期試験・大学受験・歴史能力検定の参考に是非活用してみて下さい。
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一問一答!3題
1.継体天皇を擁立した( )は、百済に「任那四県」を割譲したことが遠因となり、失脚した。
2.朝鮮半島の新羅と結びヤマト政権に反乱を起こした磐井を鎮圧した大連は誰か?
3.磐井の乱で死去した磐井は戦後、福岡県の( )古墳に埋葬されたと考えられている。
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