弥生時代を『漢書』地理志・『後漢書』東夷伝・『魏志』倭人伝で徹底解説!
弥生時代を理解するコツは「史料」です。この記事では弥生時代を代表する3つの史料を軸に弥生時代の流れを徹底解説していきます!
『漢書』地理志の時代
まずは『漢書』地理志に目を向けてみましょう!『漢書』地理志には紀元前1世紀(弥生時代中期)の日本の様子が描かれています。
紀元前1世紀(弥生時代中期)の日本は100以上の国に分かれていました。そして互いに激しく争っていたのです。少しでも日本国内での立場を有利にするために、こうした100余りの小国の中には、中国の楽浪郡にお土産をもって挨拶に行く国もあったわけです。こうした行為を朝貢といいます。
朝貢のメリットは、中国のお墨付きをもらうことで、支配権を強化できることです。
関連記事!『漢書』地理志を徹底的にわかりやすく解説!一問一答付き(日本史史料)『後漢書』東夷伝の時代
次に日本のことが登場する中国の歴史書は『後漢書』東夷伝です。弥生時代中期~後期(1世紀~2世紀)の日本の歴史について書かれています。
「建武中元二年」は日本史で最初に出会う年号で西暦57年です。また『後漢書』東夷伝には具体的な国名が登場します。それが「奴国」です。当時の倭国(日本)は『漢書』地理志に記載のあった通り、100余国に分かれていると考えられますから、そうした小国の1つに奴国という国があったわけです。
で、『後漢書』東夷伝によれば、奴国は後漢の光武帝に朝貢して、返礼品として印綬(金印)を貰ったわけです。要は金のハンコを貰った。中国では役人に紐付きの印綬を与える習わしなので、奴国も中国の役人として認められ、奴国の支配権を中国の皇帝から正式に認められたわけです。
この印綬(金印)は江戸時代に福岡県の志賀島で偶然に見つかっています。金印には「漢委奴国王」という文字が彫られていました。
続いて「安帝の永初元年」とは西暦107年ですから、奴国が中国公認になってからちょうど50年後に、今度は倭国の王のひとりである帥升という人が後漢に朝貢した。朝貢とはお土産を持って挨拶に行くことでしたね。何をお土産にしたかというと、生口(=奴隷)160人を貢ぎ物として持参したわけです。
帥升という王様が倭国のどの国の王かは不明ですが、やはり支配権を強化するために必死に朝貢していた様子がうかがえますね。
そして『後漢書』東夷伝の最後には「桓霊の間、倭国大いに乱れ、更相攻伐して歴年主なし。」とあります。これは弥生時代後期の日本で倭国大乱と呼ばれる大戦争が起こったという意味です。
『魏志』倭人伝の時代
さて、次は『魏志』倭人伝を簡単に確認していきましょう。
「旧百余国」とは『漢書』地理志に書いてあった、倭国は100余り小国に分かれて互いに争っているという内容を指しています。そして「今、使訳通ずる所三十国」とあります。2世紀中頃になると倭国大乱は無事に平定されて、30余りの国が連合国家が形成される。
このように倭国大乱を収めて約30の国が協力して1つの大きな連合国を作ります。これが卑弥呼率いる邪馬台国です。『魏志』倭人伝は中国の「魏」の歴史書ですから、邪馬台国を形成する約30の国々が魏と交流を持っていたということが書いてあるわけです。
また『魏志』倭人伝には「鬼道を事とし、能く衆を惑はす。年已に長大なるも、夫壻無く、男弟有り、佐けて国を治む。」とあります。卑弥呼の特徴を書いた文章ですね。鬼道とは呪術のことです。卑弥呼は呪術つまり宗教的権威を使って邪馬台国を統治していたことがわかります。
そして『魏志』倭人伝によれば、西暦239年に卑弥呼が魏に朝貢し、返礼として「親魏倭王」の称号をゲットします。その後、卑弥呼は狗奴国との戦争で亡くなり、代わりに男王が立ちますが、うまく邪馬台国を治めることができなかった。
やはり女性でないと邪馬台国の統治は難しいのではないかということで、まだ13歳の娘ではありましたが、壹与という女の子を邪馬台国の盟主にしたところ、不思議と国がうまく治まったと『魏志』倭人伝には書いてあります。
関連記事!『魏志』倭人伝の内容を超わかりやすく解説!一問一答付き(日本史史料)邪馬台国の盟主である壹与が活躍したのは3世紀後半頃のことです。そして4世紀前後になるとヤマト政権という本格的な統一国家が登場し、弥生時代は終わりを迎えます。
なお、ヤマト政権が邪馬台国の続きなのか、それとも邪馬台国とは無関係に、ヤマト政権が登場したのかは分かっていません。なぜなら邪馬台国がどこにあったのかが未だに分からないからです。
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