『魏志』倭人伝の効率的な覚え方・暗記方法
この記事では『魏志』倭人伝の内容を超わかりやすく説明していきます。日本史の定期テスト・大学受験・歴史能力検定に役立つ内容になっています。難関大学の入試問題にも十分対応できる中身になっています!
また『魏志』倭人伝の解説を読んだ後に効率的に用語暗記ができるよう記事の最後に下記のような一問一答を13題、設置しました。
例題3世紀の日本の様子は主に( )という中国の史書に記されている。[関西大]※「+解答解説」ボタンを押すと「解説」と「答え」を確認できます。
一問一答では記事中で登場する重要な日本史用語のほぼ全てを「暗記/確認」できるようになっています。是非活用してみて下さい。
「解説で理解」→「一問一答で暗記」の二段構えで『魏志』倭人伝を完全マスターできます!
『魏志』倭人伝の内容を超わかりやすく解説!
一番最初に『魏志』倭人伝に書いてある内容をざっくりと簡単にまとめてみます。ポイントは5つです!
- 3世紀の倭の様子→30国が連合し邪馬台国を形成
- 朝鮮半島から邪馬台国への道順→邪馬台国の位置
- 卑弥呼が王になるまでの経緯・背景
- 邪馬台国と魏の外交関係、朝貢の様子
- 卑弥呼の死後、邪馬台国はどうなったか?について
この記事ではこれら5つのポイントを徹底的にわかりやすく解説していきます!『魏志』倭人伝はとても長いので、試験に出るポイントを網羅しようとするとどうしても長文になってしまいます。
ですから一緒に気合を入れて読み込んでいきましょう(笑)!!!
さて、まずは中国史に目を向けてみましょう(『魏志』倭人伝に絡んで赤字の部分は中国史でも日本史で出題されますよ!)。
『魏志』倭人伝の内容とは
220年に後漢が滅亡すると中国は魏・蜀・呉の三国時代に突入します。この3つの国の中の「魏」をメインに扱った歴史書が『三国志』です。で、この『三国志』の一部が『魏志』倭人伝です。3世紀後半に普という国の陳寿が書いた本です。
大学入試の問題なんかでは、選択肢に『魏志』倭人伝がなく『三国志』しかない場合もあるので注意して下さい。つまり、あくまでも『魏志』倭人伝は『三国志』のほんの一部分にすぎません。
『魏志』倭人伝の頃の日本
『魏志』倭人伝には3世紀(弥生時代後期)の日本の様子が書かれています。3世紀の日本では倭国大乱と呼ばれる大戦争がようやく平定され、邪馬台国の卑弥呼が強大な権力を持った時代です。
ちなみに倭国大乱とは『後漢書』東夷伝に書かれた2世紀後半の日本国内の激しい争いのことです。倭国大乱について『後漢書』東夷伝には「桓霊の間、倭国大いに乱れ、更相攻伐して歴年主なし。」と書かれています。
「激しい戦争が続き、それを統一する者が長期間現れなかった」という意味です。
『魏志』倭人伝の時代にはこのような激しい戦争状態が卑弥呼ひきいる邪馬台国によってようやく落ち着いてきたというわけですね。
ポイント①帯方郡
「倭人」とは日本人の呼び名ですね。「帯方」という言葉が出てきますが、これは『漢書』地理志に出てくる「楽浪郡」が名前を変えたものです。
漢王朝の時代には朝鮮の植民地を楽浪郡と呼んでいましたが、魏の時代にはこれを帯方郡と呼んでいたわけです。帯方郡は現在のソウル付近です。
ポイント②魏に使者を送る日本の国は30国!?邪馬台国の台頭
「旧百余国。漢の時朝見する者あり。」とは、『漢書』地理志の「夫れ楽浪海中に倭人有り。分れて百余国と為る。歳時を以て来り献見すと云ふ。」という記述のことを指しています。
どういうことかというと、『漢書』地理志の時代、すなわち前漢の時代(紀元前1世紀頃)には、倭(日本)は100余りの国に分かれていて、そうした小国の中には、中国の領土である楽浪郡に朝貢する国もあったわけですね。
補足「朝貢」とは定期的にお土産をもって挨拶に行くこと!そして「今、使訳通ずる所三十国」とあります。これは「今現在、魏と国交がある日本の国は30国だ」という意味です。
しかし、この日本国内の30の国は互いに争っていたわけではなく、連合していたんです。この30余りの国が集まった国家連合の盟主こそ卑弥呼ひきいる邪馬台国というわけです。
つまり2世紀後半の倭国大乱を平定した邪馬台国は『魏志』倭人伝の時代である3世紀には30余りの国の盟主になれるほど強大な権力をもっていたわけです。
ポイント③邪馬台国への道順!?九州説 VS 畿内説
「郡より倭に至るには」の「郡」とは帯方郡のことです。これは超頻出問題です。
帯方郡は現在のソウル付近ですから、「朝鮮半島のソウルあたりから邪馬台国に行くには…」と解釈できます。つまり邪馬台国への道順を説明しているわけですね。
で、途中に(中略)とある部分には細かい道順が詳細に書いてあるのですが、後半あたりから解き明かすのが難しい記述が出てきます。
そのため、結局、現代になってもいまだ邪馬台国の位置は謎に包まれたままです。
これが有名な邪馬台国論争で九州説と畿内説の2つが有力です。でもどちらなのかは未だにさっぱり分かっていません。絶賛論争中です!
ポイント④邪馬台国の身分制度
『魏志』倭人伝には邪馬台国の身分制度に関する記述があります。この部分は大学入試で頻出です。早速具体的な内容を確認していきましょう!
身分制度①一大率(いちだいそつ)
「特に一大率を置き、諸国を検察せしむ」の一大率は入試頻出です。
一大率とは中央から見て北側の同盟国を監視する役人のことです。北の諸国はこの一大率を非常に恐れていたらしいことが史料から読み取れます。
身分制度②下戸・大人
「下戸、大人と道路に相逢へば」の部分の「下戸」と「大人」は史料の穴埋め問題で頻出です。下戸とは一般庶民のことで、大人とは支配階級のことです。
史料の空所補充問題を解くときは順番に要注意!「下戸→大人」の順ですからね!
また「逡巡して草に入り、辞を伝え事を説くには、あるいは蹲りあるいは跪き、両手地に拠り之が恭敬をなす。」とあることから、身分の低い下戸は高貴な大人に会うと道を空けなければいけない。話しかけようものなら土下座のような姿勢をとらなければならないわけです。
この『魏志』倭人伝の記述は邪馬台国の時代に厳しい身分差があったことを示しています。
ポイント⑤卑弥呼が邪馬台国の王になった経緯
続いて『魏志』倭人伝にはどのような経緯で卑弥呼が邪馬台国の王になったのかが記されています。また卑弥呼の特技についてもふれています。
『魏志』倭人伝のこの部分が、卑弥呼が邪馬台国の王になるまでの経緯についての記述です。最初は男性を王にしたものの、どうもうまくまとまらない。
そこで、女性を王に据えたところうまくいった。その女王こそ卑弥呼なわけですね。
ポイント⑥卑弥呼の特徴
続いて卑弥呼の王としての特徴に関する記述です。
鬼道とは呪術のことです。呪術とは宗教的なカリスマ性のようなものですね。つまり卑弥呼は巫女のような存在だった。そして、卑弥呼は人々の統率が得意で30国の連合国家である邪馬台国をうまく統制していたわけですね。
年齢のくだりはあまり重要ではありませんが、弟(男弟)がいた点は大切です。で、その弟さんが卑弥呼の政治を手伝っていたと『魏志』倭人伝には書いてあるわけです。
さて、『魏志』倭人伝は長い!!!まだまだ続きがあります。テストに出るところだけうまく抜粋するので一緒にがんばって読み解いていきましょう。
次のポイントは卑弥呼が魏に使者を送るお話です。
ポイント⑦魏への朝貢と親魏倭王の称号
邪馬台国と魏の外交関係についての重要な記述です。
景初二年ではなく景初三年(239年)
まず「景初二年六月」とありますが、これは「景初三年」の間違いです。景初三年とは西暦239年にあたります。この年号はテストに出ます。「二年と三年がくい違った→239」と覚えましょう。
朝貢といえば大夫!?
さて、『後漢書』東夷伝の内容をちょっと思い出してみると「建武中元二年、倭の奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。」とあります。「建武中元二年」は日本史に出てくる最初の年号で西暦57年のことでした。
この『後漢書』東夷伝の冒頭部分は「西暦57年に大夫という身分の人物が朝貢してきた」という意味です。後漢に朝貢した時代から200年弱経っているのですが、『魏志』倭人伝に登場する使者も大夫と名乗っています。
難升米
しかも今回は使者の人物名も書いてある。難升米という人らしい。で、「大夫難升米等を遣はし郡に詣り」の郡とは朝鮮半島の帯方郡のことです。
朝貢
続いて「天子に詣りて朝献せんことを求む」と書いてあります。洛陽(魏の首都)にいる魏の皇帝にお土産を渡して朝貢したいという意味ですね。朝貢とは定期的にお土産を持って挨拶に行くことです。
さらに「其の年十二月」とある。この「其の年」とは「景初三年=西暦239年」のことです。
親魏倭王をゲット!
「詔書して倭の女王に報じて曰く、…今汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し」の詔書とは魏の皇帝が卑弥呼に宛てた手紙のことです。そしてここからが超重要です。この手紙(詔書)には卑弥呼に親魏倭王の称号を与えると書いてあったんです。
さぁ、次でようやくラストです!!!
ポイント⑧卑弥呼の死と壱与
卑弥呼の戦死
当時、邪馬台国は狗奴国と戦争をしていました。この戦争が原因で卑弥呼は死んでしまいます。卑弥呼のお墓の所在には様々な説がありますが、奈良県の前方後円墳である箸墓古墳の可能性を指摘する学説もあります。
再び争乱へ
さて、卑弥呼の死後に男の王様を立てたわけですが、これは大失敗に終わった。『魏志』倭人伝によれば邪馬台国は戦争状態になり1000人の死者をだす程だったらしい。
壹与による統一
そこで、女王の方がいいだろうということで、まだ13歳の女の子である壹与を王に立てたところようやく争乱が治まったというわけです。
さらに壹与は266年に普の都である洛陽に使者を派遣しています。
お疲れさまでした!!!長かった『魏志』倭人伝もこれで終わりです!!!
さて、せっかく長い解説を読んだわけですから、まだ知識が新鮮なうちに、是非、重要用語を暗記したいものです。そこで下記に一問一答を13題設置しましたので、是非ご活用下さい!
一問一答!13題
大学入試の過去問を中心とした一問一答集です。「+解答解説」ボタンを押すと「解説」と「答え」を確認することができます。
1.( )によれば、3世紀前半、邪馬台国の女王、卑弥呼を盟主とする約30の少国家連合が成立していた。[関西大・改題]
2.中国大陸では220年に後漢が滅ぶと代わって(①)・呉・蜀が並び立つ、いわゆる(②)時代となった。[駒澤大・改題]
3.中国の正史『( )』のうち『魏書』東夷伝倭人条には、2世紀後半に倭国大乱が起きたが国々が一女子を王として共に立てたところ争乱が収まったと記されている。[立命館大・改題]
4.『魏志』について、この史書の編纂者は誰か。[早稲田大]
5.三国時代にその一つである魏が中国北部を統一すると、(a)国は魏と交渉をもつようになった。その女王卑弥呼は、対立していた狗奴国との抗争が未決着のまま、248年頃死んだ。その後、男王が立ったが、(a)国は乱れ、卑弥呼の宗女壹与を王にしたことで国中が定まった。[駒澤大・改題]
6.3世紀には(①)を女王とする邪馬台国が(②)余国の小国をまとめていた。[早稲田大]
7.『魏志』倭人伝には「郡より倭に至るには、海岸に循ひて水行し、韓国を歴て、乍は南し乍は東し、…(中略)…邪馬台国に至る。」という記述があるが「郡」とは何か?[立教大・改題]
8.いわゆる邪馬台国論争では、主に(①)説と(②)説が対立している。(②)説の根拠の1つには箸墓古墳などがある奈良県の纒向遺跡がある。
9.『魏志』倭人伝によると、国々を検察するために伊都国に( )がおかれていた。[慶応大]
10.空欄①、②に入る漢字2字の語句はそれぞれ何か?
「(①)、(②)と道路に相逢へば、逡巡して草に入り、辞を伝え事を説くには、あるいは蹲りあるいは跪き、両手地に拠り之が恭敬をなす。」
11.『魏志』倭人伝には、卑弥呼は「( )を事とし能く衆を惑はす」とある。[立命館大]
12.卑弥呼は( )年に魏に遣いを派遣した。[学習院大]
13.卑弥呼は239年、魏に使者を送り「(①)」の称号を授与され、100枚の銅鏡などを贈られた。その後も魏との外交を続けたが、卑弥呼は(②)との争いの最中に亡くなり、径百余歩という大きな墓に葬られた。後継には、はじめ男子が立てられたが、国中が服さなかったため、女性の(③)を王とすることでようやくおさまったという。[中央大・改題]
おわりに
ここまで読んでいただき本当にありがとうございました!繰り返し当記事の解説や一問一答を読み込むことで、日本史の知識が定着しますので、是非、この記事をブックマークして日本史学習の参考にして頂ければ幸いです!
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