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【日本史】高句麗好太王碑文を超わかりやすく!一問一答付き|百残とは何か?(日本史史料) | 日本史まとめ&問題集・歴スタ!

【日本史】高句麗好太王碑文を超わかりやすく!一問一答付き|百残とは何か?(日本史史料)

日本史

高句麗好太王碑分の効率的な覚え方・暗記方法

概要

ヤマト政権の成立は4世紀前後といわれていますが、4世紀頃の日本の様子を物語る史料はほとんどなく、4世紀は「謎の世紀」と呼ばれています。この空白期間を知る貴重な手がかりが「高句麗こうくり好太王こうたいおう碑文ひぶん」です。

この碑文には4世紀後半にヤマト政権が朝鮮半島に侵攻したことが記されています。侵攻の目的は「鉄資源の確保」と考えられています。ちなみに、百残ひゃくざんとは百済くだらのことですね。

効率的な覚え方・暗記方法

さて、この記事では高句麗好太王碑文を徹底的にわかりやすく解説していきます。日本史の定期テスト・大学受験・歴史能力検定に完全対応しています!

難関大の出題にも十分に対応できる内容です。

また記事の最後には下記のような一問一答9題設置しました。是非、ご活用下さい!

例題高句麗好太王碑文に記されている「辛卯しんぼうとし」とは西暦何年か?[立命館大・改題]

※「+解答解説」ボタンを押すと「解説」と「答え」を確認できます。

解答解説
正解は西暦391年です。391年というのはヤマト政権百済くだら新羅しらぎを破り服属させた年です。また、4世紀末~5世紀にヤマト政権と高句麗こうくりも交戦しています。

「解説で理解→一問一答で暗記」の二段構えで是非、高句麗好太王碑文を完全習得して頂ければと思います!

高句麗好太王碑文の超わかりやすい解説

さて、ここからは「高句麗好太王碑文」を小分けにして丁寧に読み解いていきましょう!

高句麗好太王碑文とは

高句麗こうくり好太王こうたいおう碑文ひぶん」は414年に高句麗の好太王こうたいおう広開土王こうかいどおう)のお墓の入り口に立っている石碑せきひで、建てたのは息子の長寿王ちょうじゅおうです。高句麗の都があった丸都城がんとじょう(現在の中国の吉林省きつりんしょう)にあります。

長寿王とか丸都城のような朝鮮半島の知識を暗記する必要もあるの?
ゆん
ゆん
涼子
涼子
「長寿王」・「丸都城」・「吉林省」といった用語は実際に定期試験や大学入試で問われる重要用語なのよ!

ちなみに、この碑文のように金属や石に刻まれた文章を金石文きんせきぶんといいます。

好太王碑文の主な内容は「好太王の業績自慢」です(笑)。「ヤマト政権が朝鮮半島に攻めてきたが、好太王が見事に撃退した」と記されています。

では、早速ですが、好太王碑文の本文と日本語訳を確認していきましょう!

ポイント①百済・新羅と高句麗の関係

百残ひゃくざん新羅しんらは、もとこれ属民ぞくみんにして、由来ゆらい朝貢ちょうこうす。
現代語訳百済くだら新羅しらぎは、高句麗こうくりに古くから従い、以前から朝貢ちょうこうしていた。

百残ひゃくざん新羅しんら」とありまずが、これは百済くだら新羅しらぎのことですね。百残ひゃくざんというフレーズは高句麗好太王碑文にしかないものなので、問題文中で「百残」を見たら「あ!好太王碑文だな!」と判断するようにしましょう。

で、朝鮮半島の南に位置する高句麗百済新羅が昔から朝貢ちょうこうしていたと書いてあります。朝貢とは定期的にお土産を持って挨拶に行くことです。

さて、ここで、高句麗、百済、新羅の位置関係を確認しておきましょう。4世紀末~5世紀の朝鮮半島の勢力図です。

4世紀から5世紀の朝鮮半島の勢力図、高句麗、百済、新羅の位置関係

一番下の「加羅から伽耶かや)」は地域の名前であって国名ではありません。この地域は加羅(伽耶)諸国とも呼ばれ、いくつかの小国の集まりです。

日本書紀』によればヤマト政権は伽耶諸国かやしょこく任那みまな日本府にほんふという出先機関を設置して、強い影響力を及ぼすと共に、この地域を朝鮮半島進出の足がかりにしていました。但し現在では任那日本府の存在を疑問視する説もあります。

任那日本府の実在があやしいということはヤマト政権は朝鮮半島に拠点を持っていなかった可能性もあるのかしら?
明日香
明日香
涼子
涼子
たとえ任那日本府が実在しなくても加羅(加耶諸国)に強い影響力を持っていたのは確実よ。加羅(加耶諸国)と日本は密接な関係にあり鉄資源の供給地としていたようね。

では史料に戻ります。

ポイント②ヤマト政権の朝鮮侵攻

しかるに辛卯しんぼうとしもって、きたりてうみわたり、百残ひゃくざん・■■・■やぶり、もっ臣民しんみんす。…
現代語訳(ヤマト政権)が西暦391年に、海を渡って百済くだら新羅しらぎを破り、服属ふくぞくさせた。

4世紀から5世紀の朝鮮半島の勢力図、高句麗、百済、新羅の位置関係

辛卯しんぼうとし」とは西暦391年のことです。この年、ヤマト政権)は鉄資源の確保を目的に、伽耶諸国かやしょこく(加羅)を足がかりとして、まずは百済くだら新羅しらぎと交戦したようです。

ちなみに■の部分は碑文から消えてしまって読み取れない文字です。

ポイント③高句麗の大勝利!?

倭寇わこう潰敗かいはい惨殺ざんさつ無数むすうなり。
現代語訳しかし好太王によって倭(ヤマト政権)は敗北し、たくさんの死者を出した。

好太王(広開土王)の大活躍が描かれている部分ですね。好太王碑文の記述が正しければ、ヤマト政権は百済・新羅には勝った。けれども高句麗には負けてしまったわけですね。

ここまでで、「高句麗好太王碑文」の解説は終わりです。ここからは一問一答集で知識を定着させていきましょう。大学入試の過去問を中心に9題の一問一答を設置しました。是非参考にしてみて下さい!

一問一答!9題

定期テスト・大学受験・歴史能力検定対策に役立つ一問一答集です。ここまでの説明をさらに深く理解できるよう、答えだけではなく解説にも力を入れました。

※「+解答解説」ボタンを押すと「解説」と「答え」を確認できます。

1.次の史料を読み、後の設問に答えよ。

「百残・新羅は旧是れ属民なり。由来朝貢す。而るに倭、辛卯の年よりこのかた、海を渡りて百残・■■・■羅を破り、以て臣民と為す。」

問1.この史料の出典は(  )である。[上智大]

問1の解答解説
正解は高句麗こうくり好太王こうたいおう碑文ひぶんです。好太王碑文は日本の空白の4世紀を物語る貴重な史料です。4世紀後半にヤマト政権が朝鮮に侵攻した様子が記されています。この石碑は当時の丸都城がんとじょう(現在の中国・吉林省きつりんしょう)にあり、石に文字を刻んだ金石文です。好太王(広開土王)の功績を記したもので、建てたのは息子の長寿王ちょうじゅおうです。

問2.「辛卯の年」とは西暦何年か。[立命館大]

問2の解答解説
正解は西暦391年です。この年号は超頻出問題です。史料問題で、高句麗好太王碑文かどうかを判断する第1のポイントは「百残」ですが、第2のポイントは「辛卯の年」という語句です。

問3.この史料は(  )王の功績を示す碑文である。[上智大・改題]

問3の解答解説
正解は好太王こうたいおうです(広開土王こうかいどおうでも可)。

2.好太王の功績を示す碑が高句麗の都があった(  )に建てられた。[上智大]

解答解説2
正解は丸都城がんとじょうです。現在の中国・吉林省きつりんしょうですね。高句麗は668年に唐・新羅に滅ぼされ、高句麗は唐に吸収されます。

3.好太王碑を建てた広開土王の子は誰か。[立教大]

解答解説3
正解は長寿王ちょうじゅおうです。好太王(広開土王)の息子ですね。

4.好太王の碑文には、(  )の年(西暦391年)より倭が朝鮮半島に侵入したと記されている。[中央大]

解答解説4
正解は辛卯しんぼうの年です。「辛卯の年=391年」ですね。

5.好太王の石碑は、現在の中国の(  )省にある鴨緑江流域におかれている。[専修大・改題]

解答解説5
正解は吉林省きつりんしょうです。滅多に出題されない難問です。

6.ヤマト政権は(  )資源に関心を持ち朝鮮半島に侵攻したと考えられている。

解答解説6
正解は資源です。当時のヤマト政権が支配権を拡大するためには武器の材料になる鉄資源の確保が非常に重要でした。

おわりに

ここまで読んでいただき本当にありがとうございました!繰り返し当記事の解説や一問一答を読み込むことで、日本史の知識が定着しますので、是非、この記事をブックマークして日本史学習の参考にして頂ければ幸いです!

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